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トランス差別に鈍い自分

今もきっと鈍いんだと思うけど、何故鈍いのかが自分の中で分かった気がするので、記念に書いておこうと思います。

 

 

ツイッターで『トランス差別にあたるようなことを言う人』『それを批判する人』をみて、全ての差別に否定的でいたいというスタンスの自分は、もちろんトランス差別も許されないことだと思っていました。今も思っています。

 

でも、トランス差別について、なにがそれにあたるのかがピンと来なくて。女性差別と障害者差別とかなら、すぐ「なるほど」となったんですけど。

そのうち、トランス差別として批判されている言動が自分の認識と合致してしまっていることを知って「これはよくないな」と思い、昨日の夜ずっと考えていました。

 

 

 

何故鈍いのか、3つの原因と思われるものに辿り着きました。

 

①自分の性自認に悩んだ時期があったので、トランスジェンダーの人の気持ちをわかる部分があるんじゃないかと驕っていた

②自分は性別という枠組みに拘らない人間だと思っていた

③自分のことをシスジェンダーの女性だと認識していなかった

 

 

先ず、【①自分の性自認に悩んだ時期があったので、トランスジェンダーの人の気持ちをわかる部分があるんじゃないかと驕っていた】についてですが、私は女性の身体を持って生まれて、自分のことを女だと把握しながら生きてきました。

その一方で、『女性らしさ』というものに全く順応できず、特撮を好み、赤いランドセルを嫌がり、髪は長いけども「結ぶのは女らしいことだから嫌だ」と拒否る、みたいな。

『女性らしさ』が自分に適用されるのが嫌で嫌で仕方ありませんでした。

それが19歳ごろになると、同年代の同性の人間とはてんで違う自分の見た目に悩み、女性らしく振る舞えないことを気にしまくって生きているという感じになります。

 

そこで、『Xジェンダー』という概念を知り、自分はXジェンダーなんだと自認するに至りました。(今思えば身体的違和がなかった気がするので、Xジェンダーだと判断される基準からは外れていると思います。違和なかった気がするけど、あった気もする。覚えていない)

ですが1年ちょいくらいで結局、フェミニズムを支持する人の言う「『女性らしさ』とかそういう考え方がそもそもクソだから順応する必要ねーよ」という言説に救われ、女性を自認するに至ります。

まぁ単純に、泣いてゴネながら無理に簡単な化粧覚えたり、髪を伸ばしたりして見た目も変えたんですけど。

 

 

Xジェンダー時代に何を一番気にしていたかというと「自分は女のはずだけど、女だって自分で言う資格がないんじゃないか」っていうことでした。

 

『女性らしさ』に順応出来ないから、自分を女だと思う資格がない。

 

言ってること大分ヤベーですよね。

認識変わってよかったマジで。

 

 

その一方で、その経験則があるため、「トランスジェンダーの人はジェンダーロールに順応出来ないから、自分のことをそうだと思ってんじゃないのか」って思ってしまってたんですよね。

いや、逆ですよね。

トランスジェンダーだからこそ、ジェンダーロールに余計に苦しめられてるわけだと思います。

 

あるFtMのYouTuberの動画をよく見るんですけど(話し方が愉快で好き)、彼が性別を変える前の動画で「男らしさとか女らしさとか、そういうの本当に嫌い」っていう動画を上げているんですよね。

時系列で言うと、

ジェンダーロールはマジでクソ動画

トランスジェンダーだとカミングアウト動画

だったこともあって、

トランスジェンダーだから余計にジェンダーロールがキツい」って話を

ジェンダーロールがキツいからトランスジェンダーとして生きているんだ」と解釈し、自分の経験則を補強してしまっていたんだと思います。

冷静に考えてればわかったような気もするけど。

 

そこで「ちょっとは気持ちがわかるはずなのに、全然わかんないな……」という状態になります。

わかるわけなんてないのにね、驕りですよこれは。

 

そういうふうに経験則に認識が阻害されて、差別的な考えを持ってしまっていました。

 

 

 

 

そして【②自分は性別という枠組みに拘らない人間だと思っていた】なんですが、「男性らしさ、女性らしさという意味での『ジェンダー』そのものがクソ」という意見を目にして、そうだよなぁ。と思うという経験をします。

この意見に自分は賛同できるな、という点から、自分のことを『性別に拘らない人』だと思ってたんですよね。

でも①で述べた通り、自分は『自分のことを女だと把握』して生きてきて、何が辛かったっていうと、『自分で自分のことを女性だと言えないこと』なんですよ。

 

バリバリに『自分が女性であること』に拘っちゃってんじゃないすか。バリのバリですよ、これ。

 

こんな執着あるか? いや、あるか。

でも多分、私の人生で一番の執着だったと思います。

 

結局は、私も性別に拘るタイプの人間だったんだと、気付いたわけです。

自分の恋愛対象が女性なことにも、女性キャラクターにばっかりヨッシャアッッ!!! となってしまうのも、『女性』に対する拘りですよね、結局は。

そういう人間なんですわ。

 

 

そうだと認識できると、トランスジェンダーの人があるべき姿になろうと、特定の性別に執着することがなんら不思議じゃなくなってきて、よくわかんないポイントが解消されました。

いや、そうなるわ。当たり前じゃん。

 

自分は女性の身体を持って生まれて、女性であろうと執着した結果、終着点はすぐ側にあったから、『自分を女性だと認識出来た』ってだけで解決なんですけど。

これが身体が違うってなってくると、終着点は遠くなるわけで。大変だわそりゃとなりました。感想が適当すぎるな。

 

 

 

 

最後に【③自分のことをシスジェンダーの女性だと認識していなかった】

これ、『自分のことを女だと把握』しつつ生きてきていたなら単純にシスジェンダーだったんだろうけども、自分のことをそうだとは思ってなかったんですよね。

それは、やはり『女性らしい自分』の獲得は済んでいないから。済ます必要はないからしようとしてないんですけど(つらいし)、それもあって「自分はシス女性じゃないわ」って思ってました、ずっと。

不思議だよね、なんで気付かなかったんだろう。

 

それを認めると、「「心に性別なんてない」って言えるのは、それはあなたがシス女性だからでしょ」という、シス女性に向けた批判も、自分に向くようになって。

「「性別に拘らない」っつーのはシスジェンダーだからこそ簡単に言えるんだ」っちゅー話が理解できました。

 

 

 

今でも何がトランス差別にあたるのかとか、大分鈍いと思うんですけど、物事や自分に対する認識が変わったので、これからはもうちょっとマシに考えられそうです。

 

 

そういう話です。

認識甘いとことか、言葉選び悪いとことかあると思う。精進していきます。